彼の名はティン。ヤンゴン国際空港の麓に住む35歳の男だ。体格も良く一見“ちょいワル”な風貌であるが、将来は船舶を運営する会社に入るため船舶学校へ通っているそうである。そんな彼とドライバーのソウミン、私の3人で郊外の村を散策する事となった。
アジア最後のフロンティアと言われるミャンマーではあるが、ミャンマー最大の都市ヤンゴンはさすがに都会である。貿易が盛んに行われるこのヤンゴンには、エーヤワディー川という国土を縦断する大河が流れておりこのミャンマーの水上交通の要である。エーヤワディー川を渡ると、ヤンゴン都市部とは打って変わり辺り一面水田の地と様変わりする。広大な水田の合間合間に小さな家がポツリポツリと並ぶ光景は牧歌的で長閑である。水田と言っても荒れた沼のように見えるのは稲の植え方が不規則なためであろうか。日本の田んぼを見慣れていると、一定間隔で稲が規則的に並んでいる様子が当たり前である。そんな規則性こそ田んぼたらしめるものなのかもしれない。
2人のサポートもあって、初日の撮影は順調に進んだ。彼らがいなければ水田に住む人々との触れ合いもシャッターチャンスもなかっただろう。そんな折、ドライバーのソウミンから1つの提案を受ける。
「ミャンマーのローカルな人々や生活を撮影したいなら、飛行機でバガンへ行ってとんぼ帰りなんてもったいない。5日間俺が運転とガイドをしてやるから陸路で転々と村を回るのはどうだ?あとフリーガイドとしてティンも一緒にだ。」
彼らからの提案に驚いた。本来、撮影の旅は地を巡り、出会い、偶然居合わせた瞬間に撮影のチャンスが生まれる物だ。移動手段として飛行機は便利だが、辺境の生活を巡る撮影にはもったいない代物である。今回の旅は時間も無く、ゆっくりと陸路で自由に散策する手段も持ち合わせていなかったため、飛行機での移動は苦渋の決断だった。もちろん、旅行代理店などを通せば、通訳、ドライバーをチャーターして陸路での撮影も可能だが、代理店のマージンや外人旅行者相手の値段設定など高額な請求は避けられない。とてもじゃないが個人の貧乏写真家にとって気軽に使えるものではない。彼の提案は願ってもない事だったが値段もそれなりになるだろうと思いつつ念のため聞いてみると、彼から提示された額は意外にも払えない値段はなかった。しかしながら予約済みの飛行機代を捨ててさらにプラスの出費は痛い。だが、ミャンマーに来た目的は撮影である。こんな言い方も誤解を招くかもしれないが、本来切望していた撮影のチャンスをお金で買えるならそれは悪い話ではない。そんな風に思った。しばらく考えていると、ソウミンは「今日はまだ時間もある。しばらく考えるといい。」と言って運転を続けた。そして撮影も終盤に差し掛かる頃、私は腹を括った。
「明日から5日間、撮影のサポートをしてくれ。」
そう告げると「飛行機代を捨てる事になるけど良いのか?もちろん君が良いのなら喜んで運転するが・・・。」彼は少し申し訳なさそうにつぶやいた。本来、長期の仕事を取り付けて喜ぶべき彼が逆に気を使っている様子に彼の人間性が垣間見えた。
「わかった、飛行機代を捨ててまで俺を雇っては出費がかさんで困るだろう。」
そう言って、交渉成立後にもかかわらず大幅な値引きを彼から提案してきたのである。彼の故郷であるミャンマーの姿を、遥々遠い日本から来た外国人に惜しみなく知ってもらおうとする心意気が感じられた。
この5日間の撮影で彼らは本当に最高のサポートをしてくれた。撮影の意図を汲んで、インターネットでは見つからないようなローカルな撮影ポイントや、外国人が立ち寄ることもない伝統的な風習を持った村など、彼らは独自にポイントを見つけ出し提案をしてくれる。こちらの出費を気にかけ、食事をご馳走してくれる事もあった。安宿が見つからなければ、3人でここで寝ようと車の中で眠りにつく事もあった。朝陽から夕陽まで隈なく撮影に専念し、陽が暮れ撮影が終わった後、寝る間を惜しんで長距離移動を運転するなど撮影者にとっては非常にありがたい働きをしてくれた。現地のガソリンや高速料金の出費を考えても、彼に支払った対価の残りは本当にわずかな物だったはずである。5日間フリーのガイドとして付いてきてくれたティンも、最後までお金を請求することはなかったし、チップも受け取ろうとしなかった。本当に善意での同行だった。今回の撮影は、彼らとの出会いが1番の財産だったと思っている。
「次にミャンマーに来る時も俺を呼んでくれ。君はカスタマーでない。友達だ。」
客ではなく友人として歓迎する。似たような言葉を各地で耳にしたが、彼の言葉は疑う事なく心に響いた。彼のその言葉を一生忘れることはないだろう。