HIROSHI ASAI Blog

啝 写真展「失われた場所プラニスフィア」

 今日は私の写真仲間である啝(わ)さんの写真展にお邪魔した。以前、私が廃墟をテーマとした写真展に彼が訪ねてくれた以来の仲間である。「星」+「廃墟」というテーマで日本全国を撮りためたチャレンジングな大作である。サブカルチャー界隈において廃墟ブームは幾度となく盛り上がりを見せ、あらゆるフォトグラファーが廃墟を被写体として取り扱ってきたが、彼ほどの力強くビジュアルインパクトのある廃墟写真は見た事がない。あえてこの場で多くの解説は控えるが、今回の写真展において彼独自の表現は「廃墟ブーム」の枠を超えた新たなジャンルとの出会いである。廃墟文化に興味がある方ない方問わず楽しめる写真展であった。


オリンパスギャラリー東京 2015年10月30日(金)〜11月4日(水)
開館時間:11:00~19:00 最終日 15:00(木曜定休)
〒160-0023 東京都新宿区西新宿1-24-1 エステック情報ビルB1F

 

 

ミャンマーの旅2015 「君はカスタマーでない。友達だ。」

 彼の名はティン。ヤンゴン国際空港の麓に住む35歳の男だ。体格も良く一見“ちょいワル”な風貌であるが、将来は船舶を運営する会社に入るため船舶学校へ通っているそうである。そんな彼とドライバーのソウミン、私の3人で郊外の村を散策する事となった。

 アジア最後のフロンティアと言われるミャンマーではあるが、ミャンマー最大の都市ヤンゴンはさすがに都会である。貿易が盛んに行われるこのヤンゴンには、エーヤワディー川という国土を縦断する大河が流れておりこのミャンマーの水上交通の要である。エーヤワディー川を渡ると、ヤンゴン都市部とは打って変わり辺り一面水田の地と様変わりする。広大な水田の合間合間に小さな家がポツリポツリと並ぶ光景は牧歌的で長閑である。水田と言っても荒れた沼のように見えるのは稲の植え方が不規則なためであろうか。日本の田んぼを見慣れていると、一定間隔で稲が規則的に並んでいる様子が当たり前である。そんな規則性こそ田んぼたらしめるものなのかもしれない。

 2人のサポートもあって、初日の撮影は順調に進んだ。彼らがいなければ水田に住む人々との触れ合いもシャッターチャンスもなかっただろう。そんな折、ドライバーのソウミンから1つの提案を受ける。

「ミャンマーのローカルな人々や生活を撮影したいなら、飛行機でバガンへ行ってとんぼ帰りなんてもったいない。5日間俺が運転とガイドをしてやるから陸路で転々と村を回るのはどうだ?あとフリーガイドとしてティンも一緒にだ。」

 彼らからの提案に驚いた。本来、撮影の旅は地を巡り、出会い、偶然居合わせた瞬間に撮影のチャンスが生まれる物だ。移動手段として飛行機は便利だが、辺境の生活を巡る撮影にはもったいない代物である。今回の旅は時間も無く、ゆっくりと陸路で自由に散策する手段も持ち合わせていなかったため、飛行機での移動は苦渋の決断だった。もちろん、旅行代理店などを通せば、通訳、ドライバーをチャーターして陸路での撮影も可能だが、代理店のマージンや外人旅行者相手の値段設定など高額な請求は避けられない。とてもじゃないが個人の貧乏写真家にとって気軽に使えるものではない。彼の提案は願ってもない事だったが値段もそれなりになるだろうと思いつつ念のため聞いてみると、彼から提示された額は意外にも払えない値段はなかった。しかしながら予約済みの飛行機代を捨ててさらにプラスの出費は痛い。だが、ミャンマーに来た目的は撮影である。こんな言い方も誤解を招くかもしれないが、本来切望していた撮影のチャンスをお金で買えるならそれは悪い話ではない。そんな風に思った。しばらく考えていると、ソウミンは「今日はまだ時間もある。しばらく考えるといい。」と言って運転を続けた。そして撮影も終盤に差し掛かる頃、私は腹を括った。

「明日から5日間、撮影のサポートをしてくれ。」

 そう告げると「飛行機代を捨てる事になるけど良いのか?もちろん君が良いのなら喜んで運転するが・・・。」彼は少し申し訳なさそうにつぶやいた。本来、長期の仕事を取り付けて喜ぶべき彼が逆に気を使っている様子に彼の人間性が垣間見えた。

「わかった、飛行機代を捨ててまで俺を雇っては出費がかさんで困るだろう。」

 そう言って、交渉成立後にもかかわらず大幅な値引きを彼から提案してきたのである。彼の故郷であるミャンマーの姿を、遥々遠い日本から来た外国人に惜しみなく知ってもらおうとする心意気が感じられた。

 この5日間の撮影で彼らは本当に最高のサポートをしてくれた。撮影の意図を汲んで、インターネットでは見つからないようなローカルな撮影ポイントや、外国人が立ち寄ることもない伝統的な風習を持った村など、彼らは独自にポイントを見つけ出し提案をしてくれる。こちらの出費を気にかけ、食事をご馳走してくれる事もあった。安宿が見つからなければ、3人でここで寝ようと車の中で眠りにつく事もあった。朝陽から夕陽まで隈なく撮影に専念し、陽が暮れ撮影が終わった後、寝る間を惜しんで長距離移動を運転するなど撮影者にとっては非常にありがたい働きをしてくれた。現地のガソリンや高速料金の出費を考えても、彼に支払った対価の残りは本当にわずかな物だったはずである。5日間フリーのガイドとして付いてきてくれたティンも、最後までお金を請求することはなかったし、チップも受け取ろうとしなかった。本当に善意での同行だった。今回の撮影は、彼らとの出会いが1番の財産だったと思っている。

「次にミャンマーに来る時も俺を呼んでくれ。君はカスタマーでない。友達だ。」

 客ではなく友人として歓迎する。似たような言葉を各地で耳にしたが、彼の言葉は疑う事なく心に響いた。彼のその言葉を一生忘れることはないだろう。

ミャンマーの旅2015 「どこへ行きたい?」

 なかなか”やんちゃ”な風貌の2人組。彼らとの出会いこそ私にとって今回最も幸運だったとも言える。彼らとの出会いはヤンゴン国際空港、つまりミャンマーの入国すぐの玄関口である。当初、今回の予定はヤンゴンで1泊、その後国内線でバガンに移り向こうでじっくり撮影に回るものであった。飛行機での移動は点と点を最大限効率よくめぐる手段ではあるが、写真家としてはこの点と点との間にこそ興味をそそられるものである。だが限られた時間の中、効率よく撮影に専念するためのトレードオフの結果、飛行機での移動手段を選択した。

 バガン、マンダレー、インレー湖。主に思い当たるミャンマーの観光地といえばはこの辺りだろう。本来、観光地を避けたローカルな情景をテーマに撮影する事を主な活動としているのだが、ミャンマーというとまだまだ情報の少ないアジアの辺境ということもあり、まずは以前から興味のあったバガンを拠点に選んだ。バガンへのフライトは明日早朝。今日1日はタクシーを拾ってヤンゴン周囲のローカルな村を回る予定を立てていた。
 ヤンゴン国際空港に到着し、1日陽が暮れるまでフリーで動いてくれるタクシーを探していたところ、1人のドライバーが声をかけてきた。「どこまで行くのか」という彼の問いに、「今日陽が暮れるまで1日付き合ってほしい」と述べると少し驚いた様子だったが、すぐに値段の交渉が始まった。撮影のパートナーとして、ドライバー兼ガイドとして働いてくる人材である事が条件であるため、英語が通じる彼は適任であった。撮影の為に色々と付き合ってほしい旨を伝え彼との交渉は成立した。

 ドライバーの名前はソウミン。脂が乗った32歳の2児父である。「ヤンゴン市内ならどこだって案内してやる。どこへ行きたい?」彼は市内観光をするつもりでいたらしいが、残念ながら私の興味の対象は市外のローカルな村である。あらかじめグーグルマップの航空写真モードでおおよそのアタリをつけていた場所の方角へ進むことにした。観光地のハイライトを避けてあえて市外へ行けという私に対して彼は、変な外国人を乗せてしまったと思っていただろうか。だが彼は飲み込みが早く、私の意図を素早く察知し快く運転を続けてくれた。田舎に行くならその辺りに詳しい友人をガイドに誘おう、という彼の提案を受け、もう1人ガイドが付く事になった。

ミャンマーの旅2015

 1948年、およそ100年にも渡るイギリス連邦による支配下にあったビルマは、ビルマ連邦として独立を遂げた。独立以来、軍事政権による執政が始まり、1989年にはミャンマー連邦として国名を改名する事となる。ミャンマーでは幾度とも民主化への運動が立ち上がるが、軍部による抵抗によってミャンマーの革命は潰えてきた。しかし、1990年の軍事政権下による総選挙以来この2015年11月、初めてミャンマー全土における本当の意味での総選挙が行われる。それは長らく軍事政権による自宅軟禁下にあったアウンサンスーチー氏の出馬である。彼女が掲げる民主化改革にミャンマーの人々は空前の熱を上げている。

 今回の旅は5泊6日という強行スケジュールではあったが、良い出会いに恵まれ濃厚な滞在となった。そもそも当初予定していたスケジュールは空路にてヤンゴン、バガンを往復するだけのコンパクトなものであった。だが、ヤンゴンで遭遇したタクシードライバーとの出会いによって全ての予定を改める事となる。

ウェブを一新しました。

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RustyGarden改め、HIROSHI ASAI PHOTOGRAHYとして再出発です。

また、Blogも「錆園 -サビノソノ-」からこちらのBlogに統合します。

今後ともよろしくお願いいたします。